ベッカー 『アート・ワールド 』メモ
ハワード・ベッカーの『アート・ワールド』(https://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=3175)1章(p3-45)メモ
①これは美学についての研究ではない。あるアート作品が作られるのに必要な人々の集合的行動についての研究である。(→事物を行為の結果としてみる技法)
②「どんなアート作品でもいいから、それが最終的にその形をとるために達成されねばならない全活動を考えてみるとよい」。そうしてできあがるのは「……せねばならない」という命令形の行為のリストだ。もちろん、それ以外の仕方でも人々はアート作品を作る。しかしその作品が最終的に正確にその形を取るには、そのプロセスによってでなければ「ならない」。他の仕方で作られるのは、他の作品だから(→アート作品はその制作過程に依存する。この言い方をするのは現にある作品に特別の価値を認めているからではない。この作品はどうしていまあるような形なのか、どうしてほかのようにはならなかったのか、ということを問いたいからだ)。
③その行為は誰がするのか。実際のアート作品は「一人が全部をする」と「個々の最小行為を別の人がする」という二つの極の間にある。複数の人がかかわる場合、そこでは分業が行われる。その分業の仕方は、そのアートの特性による「自然な」ものと見なされやすい。また、一人が全部をするのはありえない。なぜならどんなに孤独なアーティストもその分野の「伝統」に依拠しているし、制作に必要な物質の製造業者や流通業者に依存するから。
④アート作品の制作に複数の人がかかわるとき、その中核にある「アーティスト」と他の作業をする「サポート要員」に分別される(→ここでの「かかわる人」はふつうに想定される範囲よりもずっと広いことに留意すること)。アーティストには特権が与えられる。いかなる種類の人々、いかなる技能を持った人々がアーティストと見なされるのか。その線引きは変化する。誰がアーティストなのかという問いは重要だとされる。なぜならアーティストは作品の評価に対して影響する(もちろん作者を重要視しない規則を持ったアートワールドも存在する)からであり、アーティストの評価とはその作品の評価の合計だからだ。
⑤アーティストが行うのは、作品制作において中核的なことだ。アーティストがしないことは他の誰かがしないといけない。アーティストは他者に依存し、そこには協同的なリンクが存在する。サポート人員とアーティストは利害や美的な判断で対立しうる。アーティストは協同的なリンクの段取りに合わせることができるし、他の人々を訓練して自分のやり方で進めることができるし、またすべて自分でしてしまうこともできる。それには時間と労力がかかる。アーティストが協同的なリンクに依存し関与することで、作り出せるアートの種類が制約される。アーティストが既存の組織では中に入られない(物理的に/規則的に)作品を作るとその作品は展示されない。既存の組織によって展示されているのは、彼らに扱える作品だけである。多くのアーティストは既存の組織で扱いきれるものごとに適応する。規則に従うアーティストは、自分たちの構想を入手できる資源に適合させる。これによって、既存の共同ネットワークのメンバーの共同に依存することから生じる制約を受け入れる。既存のネットワークに依存しないなら、必要な資源を手に入れるのに、より多くの時間と労力がかかる。
⑥アート作品の創造には、人々の共同が要求される。そのための合意、人々の共有する規則は、慣習的に使われてきたものだ。それは製作者だけではなく、鑑賞者も共有している。規則を参照することで鑑賞者は作品を理解できる。規則は不変ではなく、多くの解釈の余地があるし、アーティストによって変更可能な部分もある。規則が強制力を持つのは、それが複雑に相互依存しあったシステムの中にあらわれるからだ。これらの規則を守らないことは制作や流通における困難を増すが、他方、それによって慣習的な実践から離脱することもできる。この視点から、ある作品は規則に従う/従わないという選択の結果産物として理解できる。
⑦「アート・ワールド」はアート作品を制作するのに必要な活動をする全員からなりたつ。アート・ワールドの成員はそのアート・ワールドの規則を参照して共同する。アート作品は、アーティスト個人によるものではなく、アート・ワールドにかかわる人々の連携の産物だ。アーティストとは、アート・ワールドの人々によって「特別の才能があり、その作品をアートたらしめている」と合意されている人々だ。アート・ワールドには周囲の境界線はない。この概念はあるアート作品の制作にかかわる人々の活動の全範囲を見るために使用される。またなにが「アート」か、という点でもアート・ワールドの境界線は曖昧だ。ここではその判断はしない。アート・ワールドの成員がいかにその判断を行なっているのかに注目する(→アーティストと他のメンバーの区別と同様に)。ここでは美的な判断は行わない。ここで扱われるのは「集合的行為の特徴的な現象としての美的判断」だ。その判断が依拠する価値観は彼ら自身よる相互作用によって、彼ら自身が作り出し、自分たちが生み出しているものは価値あるアート作品なのだと確信させる(→価値観から行為するのではなく、行為が価値観を形成する。アウトサイダーズの「動機」を参照)。
20190307 女王陛下のお気に入り
眼鏡の度数を調整した。久しぶりに映画館に行った。
ツイッターで誰かがRTしていた『女王陛下のお気に入り』を観た。よかった。地獄セックスだった。
時代背景とかもうちょっと知っておけばもっと楽しめたかなーと思う。それを差し引いてもよかった。
感想ですが、一回見ただけだし、記憶力が弱いので、妄想が入っている。
①画面がきれい
まずサラの見た目が好き。だいたいサラが映っているからその時点で勝ち。眼帯があんなに似合うひといる?
衣装もよかった。鳩を撃つシーンのサラさんかっこよすぎない?好き。また観たい。
あ、あと主役の三人の見た目が全員わかりやすくちがってよかった。人間を見分けるのが苦手なので不安だった。男のひとはよくわからなくなった。髪型いっしょだし……。みんなあれ見分けられてるの?すごい。
②画面が汚い
汚物がある。
サラもアンもアビゲイルも全員ゲロ吐いていてよかった(アビゲイルが使ったゲロ壺、あれってあのお城のあらゆる部屋にあったんだろうか。それとも女王陛下の部屋だから?)。
映像的には綺麗(?)に処理されてたけど。
それにアンの身体が素朴に醜い。アナグマ。太った醜女。その肌に触れたい、抱きたいとは思えない。当時の価値観でもきっとそうなんじゃないの、と思う。知らんけど。でもサラやアビゲイルが美しいとされているならアンはけっして美しい身体の持ち主ではない。
で、そういう身体に対してアビゲイルは「舌でしてくれる」。
③舌でしてくれるの
「舌でしてくれるの」じゃないが。
これがサラとアビゲイルの違いですよね。サラは絶対クンニとかしない。アビゲイルはする。
アビゲイルは平気?でクンニする。怖い。初夜に無関心事務手コキするシーンがあったけど、たぶんあんな感じでクンニしてるんだと思う(もちろん演技しながら)。
反面、サラはクンニできない。生理的に無理なんだと思う。無理なひとは無理だよねああいうの。
クンニへの態度はウサギにもあらわれていて、サラはウサギを子ども扱いできないけど、アビゲイルは平気でアンにあわせられる(踏むが)。
④思い出話がたくさん
ウサギを子ども扱いするのは無理。
ばからしいからとかではなくて、サラってアンの「悲劇」を知っているから。死産した子、長く生きられなかった子をサラは知っているはずで、だから無理なんじゃないですか、と思う。
サラとアンは長いつきあいで、アンが健康だったころも知っている。アナグマ以前のアンを、「凄まじい人」だったアンを知っている(老いの話でもある)。
でもアビゲイルはそういうの知らないし平気でアンにあわせられる。怖い。アビゲイルの気質なら知っていてもやりそうだけど。情緒不安定なアナグマの妄想に話を合わせるくらいはしてやりそうだけど。
⑤アビゲイル
世が世ならハーレクインのヒロインじゃないですか。
ばかな父のせいで没落した貴族の娘。宮殿の女中になるけれど、陰湿ないじめを受ける。しかし病に苦しむ女王陛下を見て、持ち前の優しさと薬草の知識でその痛みを癒やす。勝手な行動に鞭打ちの罰を受けるけれど、なんやかんやで取り立てられて……って、こう、世が世ならハーレクイン案件じゃない?と思った。
ところでここのアビゲイルさんの行動がよくわからない。最初の女王陛下に薬草を塗るところ。あれってどのくらい打算なんでしょう。
へたしたら鞭打ちだけで終わってたじゃん。彼女の善性のあらわれだったりしない?なにもわからん。
⑥鎮痛剤その他
鎮痛剤をくれるひとを信用するの、どうしようもない。どうしようもないけど人間の性質としてしょうがないよねーという感がある。
アビゲイルは鎮痛剤はくれるけど、アンの健康に気を遣うわけじゃない。平気で身体に悪いものを食べさせる。
甘い言葉もその延長。治療するわけじゃない。自分に都合のいいように、アンを気持ちよくしているだけ(クンニもする)。
で、最後にサラからの手紙を燃やしたのもそういうことで、だけどそのせいで死ぬまで足揉みクンニし続けなくちゃならなくなるのかわいそう。
⑦サラ
サラから女王陛下への手紙。意味分からん。
「いやな女」も「目を刺してやりたい」もアビゲイルじゃなくてアンに向けたお気持ちなんですよね。意味分からん。
アビゲイルだったら適当に甘い言葉を書けてただろうに、不器用かよ……。
「あなたに嘘はつかない」「それが私の愛」強い。
後半はほとんどナメック星で「悟空、はやく来てくれ~!」って言ってるクリリンみたいに「サラ、はやく来てくれ~!」ってなってた。
サラは誠実(適切な言葉ではない)なんですよね。アンの前でチョコレート飲むし。たぶんああいうの、あのシーン以前にもずっと繰り返してきてたんだろうなーと思う。
でもアンがキレたのはチョコレートじゃなくて、目の前で踊ったときだった。
その後の「走っていい?」がめっちゃ良くて。車椅子押して走るな。というのはともかくとして、サラからアンへの情愛は偽物じゃない(機嫌を取るために走るひとじゃない)。
走ってセックスしにいくのなに?????
⑧ままならない
アンは作中でどんどん弱っていく。
精神的にはもちろん、身体もどんどん動かなくなっていく(移動のシーンが良い)。
最後、ウサギを踏むアビゲイルを見て、アンは逃げようとして失敗して、黙れとののしりながら脚を揉ませる。
なんだこの地獄セックスは。
まとめ
→よかった。地獄だった。
→目も痛くならなかったし、明日は岬の兄弟を観る。楽しみ。
凍結されたので避難 2
20170920
日記。
脳みそが弱く、性格の悪い人を見ると悲しくなる。
ふつう性格の悪い人は、性格が悪いなりの処世術を身につけているものだと思う。自分をよい人間に見せるなり、悪い部分を隠すなり、開き直るなり。
脳みそが弱くなってしまったせいで、そういった処世術が実行できない。そういう人もいる。自分をよい人間に見せようとする意図が、あまりにも見えてしまう。その場面場面ではよい人間らしい行動をとろうとしていることはわかる。
その人の主観的にはそれが最善手なのだろうけど(あえて最善手以外をとる人はそういないと思う)、あまりにも、わかりすぎる。わかりやすすぎる。この戦術は、自分が芯からよい人間だという表明、よい人間に見せようとしてやっているわけではないという表明を伴わなければ、成立しない。
脳みその弱さがそれを許さない。
その人も、よい人間らしい行動と、それが心の底からのものであるというメタメッセージを同時に実行しているはずだ。
でも、そんなことできるはずがない。
よい人間であろうという意図は、そう見せようという企画は、技術であり、技術は健全な脳みそじゃないと身につけることができない。実行できない。
それがわかってしまってその人を見るのは悲しい。
20170913
エターナってしまっていた。
三月、大学を卒業した。四月に就職した。まっとうな人間らしい時間がない。ある。が、足りない。
週休二日じゃぜんぜん足りないし、翌日のことを考えずにインターネットで小説を読んだりもできない。
なんだこれは。
資格を取ったら半年くらい無職をやりたい。
最近は二次創作ssを書いている。他に楽しい時間の使い方がない。
漫画を買って読むことも増えた。
いいことだ。