伊藤計劃「ハーモニー」の感想

 

伊藤計劃『ハーモニー』の感想です。

友人に『虐殺器官』の映画を見に行こうと誘われたからそれを探していたんですけど、近所の図書館で見つからなかったから代わりにこれを借りて読みました。

前評判と表紙*1

からして百合だと思っていたんですけど百合でした。

めっちゃ頭のいい女の人とそれを理解できる程度に頭のいい(優越感)女の人のやつ…いいよね…*2という気持ちになりました。

以下は百合以外の話。あ、ネタバレあります。

 

・社会的リソースとしての身体

 このお話の舞台となる未來社会は「生命主義」の原理によって支配されています。

 <大災禍>以降、人間の生命はなにより重んじられるべき価値となりました。そこではたんに生きていることだけではなく、「健康に」生きていることが求められます。それも肉体的な健康だけでなく、精神的な健康を。だから麻薬はもちろん酒も煙草も禁止され、カフェインの接種も公共の場では「マナーに反する」ものになります。人びとの健康はWatchMeという健康管理デバイスによって監視/維持されています。WatchMeは人間の病気を撲滅し、精神状態すら監視*3しています。

 なぜそうなるのか。そうする必要があるのか。それは人びとの健康と生命が「公共」のものであり「社会的リソース」だからです。

 ミァハとキアンとトァンは自分の身体が社会的なリソースとして扱われることを嫌悪して拒食による自殺を図りました。ミァハはこういいます。

〈list:item〉

 〈i:このからだは〉

 〈i:このおっぱいは〉

 〈i:このあそこは〉

 〈i:この子宮は〉

〈/list〉

 ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かにどなりつけてやるのよ

(伊藤計劃『ハーモニー』p10)

 だから「健康」に攻撃するような形で、すなわち「拒食」という方法で死んでやろうと提案し、三人は実行しました。

 

 と、まあそんなことは読んだ人にはわかってるだろうし読んでない人には伝わるかわからないしあんまり書く意味がないようなことを書いてきましたけれど、ここで気になったのは「個人の身体が社会的リソースである」とはどういうことか、ということです。

 先の引用でいわれている「おっぱい」も「あそこ」も「子宮」も、全部生殖に関する場所だから、社会的リソースととしての身体とはつまり「生殖する身体」なのかと思ったけれど、ミァハの意識が発生した場所を考えるとこれはもっと個人的な理由のような気もします。

 あ、書きながら気がついた。ミァハの意識が生まれた場所(チェチェン)も生命主義による支配も、どちらも個人の身体の所有権(支配権? 適切な言葉が見つからない)が個人ではなく社会の側にあるんだ。チェチェンでは身体への暴力を介してそれがなされていて、生命主義ではより複雑にWatchMeや倫理セッションを介してなされている。

 そこまで考えると、じゃあ「個人の身体が社会的なリソースではない」社会ってあるのか? という疑問に行きつきます。つまり、身体が他者によって利用されることもなく、またある状態(だいたいの場合「健康」と呼ばれる状態)になるよう監視されることもない社会とは。自分の健康を損なうことが許容される社会とは*4

 そう考えると、実は「わたしたちは大切にされているから、身体が公共的で社会的リソースで自分だけのものでないという(p131)」ことが「嘘」であるという(感覚を持っている)社会は、かなり珍しいというか、少なくともこの何百年かにしかないかなり特殊な社会なのではないかという気もします。

 

・意識と身体

 ある程度の社会システムさえできあがっていれば意識なんてなくてもそれを維持していくことができて、しかも現在のシステムが意識ある者に(自殺するほどの)苦痛をもたらすならば、意識なんてなくてもいいじゃないというのがミァハの結論でした。たぶん。意識なんて別に神聖なものでもなんでもなくて、進化の過程で得た形質の一つにすぎないんだから、という。

 トァンの台詞に「精神は、肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段に過ぎないかも、って。肉体の側がより生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できるような世界がくれば、逆に精神、こころのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか(p168)」というものもある。

 健康(=生存可能性)を最大化する生命主義システムにおいて、生存を目的とする肉体(=生命主義社会におけるリソースとしての身体?)にとって最大のリスクは、「意識がシステムに耐え切れず自殺すること」になる。それゆえ<ハーモ二―>は生命主義社会におけるリソースとしての身体=生存を目的とする肉体にとって最も合理的な方法といえる。

 でもこれって、実は意識本位の方法なんじゃないかという気もする。人間の生き延びにおいて意識が果たした役割を知らないのであれなんだけども。肉体の生存を最大化するシステムにおいては意識の苦痛が大きくなる。それなら意識は「耐えればいい」。そういう可能性があるにもかかわらず、(<大災禍>の教訓を無理やり引き出して)意識をなくそうというのは、やはり社会的な身体より生存を目的とした肉体より個人の意識が優先された選択だ。セカイ系だ(大セカイ系主義)。

 

 

 

 

 

 

 

*1:

https://www.amazon.coハーモニー.jp/-ハヤカワSFシリーズ-Jコレクション-伊藤-計劃/dp/415208992X

*2:最近読んだのだと野崎まど『パーフェクトフレンド』のさなかと理桜がよかった

*3:「WatchMeに警告されてしまいましたわ。対人上守るべき精神状態の閾値をオーバーしている、って」「確かに、公共の場で興奮したりすると、WatchMeはそれを計測してユーザに警告してくれますね」『ハーモニー』p187-138

*4:身体改造、タトゥーとかピアッシングの文化史と比べてみたら面白そう